知的エリートと近代台湾
植民地に設置された台北高校は、日本統治時代の中・後期を経て、25年の月日をもって終わりを告げた。当初は国家、社会のエリート養成機関となることが期待されていたが、戦後の制度改正により廃止となった。日本統治時代中・後期に誕生した台北高校の学生が高等教育を終えた時には、すでに日本統治時代後期に入っていた。それは台北高校―大学を経て育成された知的エリートたちは、その大多数がその才能を発揮する前に、時代の変局に直面したことを意味する。歴年の台北高校入学生状況は下表のとおり:
第1-18期卒業生の大学進学分野
文政学部 | 理農学部 | 医学部 | ||||||||||
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日本人 | 台湾人 | 日本人 | 台湾人 | 日本人 | 台湾人 | |||||||
人数 | % | 人数 | % | 人数 | % | 人数 | % | 人数 | % | 人数 | % | |
東京帝大 | 268 | 28% | 37 | 26% | 63 | 20% | 3 | 7% | 10 | 4% | 14 | 4% |
京都帝大 | 351 | 37% | 57 | 40% | 27 | 9% | 4 | 10% | 21 | 8% | 23 | 7% |
台北帝大 | 186 | 20% | 35 | 25% | 173 | 57% | 33 | 80% | 137 | 51% | 174 | 54% |
その他 | 149 | 15% | 13 | 9% | 43 | 14% | 1 | 3% | 99 | 37% | 112 | 35% |
合計 | 947 | 100% | 142 | 100% | 306 | 100% | 41 | 100% | 270 | 100% | 323 | 100% |
台北高校第1期~第6期卒業生の大部分、つまり1928年から1933年の間に高校を卒業し、1931年から1937年の間に大学を卒業した者は、戦前において発展条件に比較的恵まれていた。第7期以降は楊基銓(第10期生、1940年大学卒業)のように速やかに総督府の高等官へ躍進した例もあるものの、大多数は3年から4年の大学生活を経た後に戦争へと突入し、政権や体制の転換にも直面した。
台北高校―大学を経た卒業生は、日本人・台湾人問わず、戦前の早期の数期のみ比較的能力を発揮する条件があった。台湾人は高等教育を受けた者でも、台湾で官庁に入ったり、教職に就いたりすることは難しかったが、医業や実業、または法曹等、台湾社会で最も重視されていた職業に従事し、成功を収めた。
台北高校―帝大卒業生と戦後の医学分野
台湾省医学会歴代理事長 | |||
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期別 | 理事長 | 任期 | 出身校 |
1-9 | 杜聡明 | 1946─1971 | 総督府医学校―京都帝大 |
10-11 | 魏火曜 | 1971─1977 | 台北高校─東京帝大 |
12 | 邱仕栄 | 1977─1980 | 台北高校─臺北帝大 |
13 | 彭明聡 | 1980─1983 | 台北高校─臺北帝大 |
14 | 宋瑞楼 | 1983─1986 | 台北高校─臺北帝大 |
15 | 楊思標 | 1986─1989 | 台北高校─臺北帝大 |
16-17 | 林国信 | 1989─1992 | ─ |
18 | 黃伯超 | 1992─1995 | 台北高校─台湾大學 |
台湾大学医学院歴代院長 | |||
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代 | 院長 | 任期 | 出身校 |
1 | 杜聡明 | 1946─1947 | 総督府医学校─京都帝大 |
3 | 杜聡明 | 1948─1953 | 総督府医学校─京都帝大 |
2 | 厳智鍾 | 1947─1948 | 第一高校─東京帝大 |
4 | 魏火曜 | 1953─1972 | 台北高校─東京帝大 |
5 | 李鎮源 | 1972─1978 | 台北高校─台北帝大 |
6 | 彭明聡 | 1978─1983 | 台北高校─台北帝大 |
7 | 楊思標 | 1983─1985 | 台北高校─台北帝大 |
8 | 楊照雄 | 1985─1987 | 台北高校─台北帝大 |
9 | 黃伯超 | 1987─1991 | 台北高校─台湾大學 |
実際に「台北高校―帝大」という学歴を経た者たちが、戦後長期間に渡って、台湾の医学界と医学教育の采配を取った。相当数の卒業生が臨床や基礎医学の教授を担当したほか、各医学学会は学術交流や医師たちの継続学習の重要な場となり、「台湾省医学会」は、台湾の基礎医学と臨床医学にとって最も重要な総合的リーダーの役割を担った。これらはみな台北高校―帝大出身者が主導或いは創設したもので、ここからも台北高校―帝大出身者の戦後の医学分野における重要性をうかがうことができる。
台湾大学医学院は戦後長い間、医学教育発展をリードしてきた重要な医学教育機関であり、その10代目院長(陳維昭)以前は全て日本時代に高等教育を受けたエリートたちであった。
王育徳の「私の友人たちは台湾医学界に固い礎を据え、残虐な国府政権でさえも容易に彼らに手出しはできない」という言葉は、時代の荒波を経験した者による確かな言葉である。医学と教育は権力や利益が集中する場所ではなく、且つ台湾人は医学を学ぶ者が多く、社会的地位も高かったため、一つの自立発展的な空間となったものであろう。政権の転換や初期の混乱を乗り越えた、旧制教育の下で育成された台湾人エリートたちは、不利な環境下にあっても、近代台湾と非常に深い関わりを持っていた。
医学界において固い礎を据えた台湾人エリートたちは、その他の分野においても優れた人材を輩出した。台北高等学校はエリート選抜の関門において、確実に人材厳選の機能を果たした。その教育対象はすべて戦前に選ばれた究極のエリートたちで、彼らを国家社会の将来のリーダーと見なしていた。その結果、戦後の台湾人エリートたちは劣悪な環境下においても、自身の条件と能力によって成功を収め、台湾建設と深い関係を持った。これは高校の人材選抜と育成による功績といえる。
役職╱中華民国総統
役職╱行政院副院長
役職╱司法院副院長
役職╱監察院副院長
役職╱立法院院長
役職╱司法院副院長
役職╱考試院副院長
役職╱衛生署長
役職╱衛生署長
役職╱臺北市長
役職╱元考試院考試委員
役職╱高雄県長
役職╱司法院大法官
役職╱司法院大法官
役職╱司法院大法官
役職╱司法院大法官
役職╱総統府顧問
役職╱大同公司創設者
役職╱作家
役職╱台湾大学病院院長
役職╱台湾大学医学院院長
役職╱WHO顧問
役職╱経済学者
役職╱台湾語学者
役職╱国立台湾大学文学部教授
役職╱詩人
役職╱牧師
役職╱図書館学者
役職╱医師
役職╱医師
役職╱総統府顧問
役職╱元台湾大学医学院院長
役職╱和信医院院長
役職╱医師、画家
役職╱高雄県長