学校創設と入学
台湾総督府高等学校は大正11年(1922)に創立され、創立当初は台北第一中学校(現在の建国中学)校舎を暫定使用し、1926年4月の校舎落成後は古亭町(現在の国立台湾師範大学校本部)へ移転、1927年に正式に学校名を「台湾総督府立台北高等学校」と改名し、「台北高校」と略称された。
1922年に公布された「台湾教育令」は、中等以上の教育機関(師範学校を除く)について制定し、日台の差別待遇および隔離政策を廃止して、日台共学の道を開いた。台湾総督府は大学設立を最終目標とし、高等学校や帝国大学を次々と設立して、高校―大学の高等教育体制を完成させた。
旧制高等学校は、1886年の「中学校令」発布から、1950年の制度廃止まで64年間存在した。戦後の新制高等学校と区別するため、旧制高等学校と呼ばれる。
旧制高校と新制高校は同じく高等学校と呼ばれるが、それぞれ6-5-3-3と6-3-3-4の教育体系にあり、実際には直接対応しない二つの全く異なる制度である。旧制高校は戦前、大学―特に帝国大学―と連結しつつも、それぞれ独立した少数エリートの教育段階であり、教育目的や方法、学風、校風など、どれも独自性を備えていた。高校―帝大の高等教育体系の下で、大学に入る前の予備教育の性質を持ち、高校の門をくぐり抜けた学生は、必然的にその将来を嘱目された。
台北高校には尋常科と高等科の前後2段階が設けられており、尋常科は毎年小、公学校卒業生40名を受け入れ、中学校程度の教育を施し、組分けをせずに、4年の学業修了後はエスカレーター式に高等科へと進んだ。高等科は尋常科からエスカレーター式で進学した40名以外に、毎年入学試験を通して、中学卒または4年修了の120名前後を受け入れ、大学予備教育と高等普通教育を施し、学生の志願に基づいて、文科と理科に分かれ、さらに専攻外国語の違いにより、甲・乙2類に分けられ、甲類は英語を第一外国語、ドイツ語を第二外国語とし、乙類はドイツ語を第一外国語、英語を第二外国語とした。3年の学業修了後は、原則として試験免除で日本全国の各(帝国)大学にそのまま進学することが出来た。
台北高校は戦前において台北帝国大学予科以外の唯一の大学進学ルートであったため、入試競争は非常に激しかった。高等科の毎年の予定募集人数160名のうち台湾人合格者は毎年30名にも満たず、尋常科募集人数40名のうち台湾人合格者は毎年平均4名のみであり、台湾におけるトップの難関進学校と認識されていた。
台北高校は帝大予科の性質を持っていたため、卒業生のほとんど全員が大学へ進学し、授業は外国語の教育に重点を置き、相当な成果を挙げた。また、優秀な教師陣によって少人数の学生を教育し、さらに学生の大多数が寮生活を送っていたため、自治的な生活の中で仲間と切磋琢磨することで、友情が育まれた。このように優れた学習環境にあった台北高校の学生は、「エリート中のエリート」と呼ぶに値する。1925年より、台北高校は総督府国語学校および医学校に代わって、台湾トップのエリート養成所となり、これらのエリートたちは台湾戦後社会におけるリーダー階層の最も重要な源泉の一つともなった。