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第一期卒業生

1922年台北高等学校創立、尋常科を設置、1925年高等科を設置、第一期生として文科25名、理科60名を受け入れた。高等科第一期卒業生のうち、台湾人は、徐慶鐘、黄春木、蔡沢雨、劉興文の4名のみだった。そのうち、徐慶鐘、蔡雨沢、劉興文の3名は台北帝国大学第一期卒業生でもある。

徐慶鐘徐慶鐘/1907-1996

台北艋舺出身。1925年に台北高等学校高等科理組に入学し、1928年に台北帝国大学理農学部農学科に入学した。1945年、台北帝国大学博士号を取得し、台湾第一号の農学博士となった。台北帝国大学が制度改正により国立台湾大学に改められた後、農学院教授として招聘された。初めての台湾出身の教授であった。

陳儀により行政長官公署参議兼土地委員会専門委員として招聘されて政界に入り、1947年に省政府農林処処長に、1949年に省政府農林庁庁長に就任した。

1966年に内政部部長兼行政院政務委員に、1972年に行政院副院長に就任した。蒋経国総統就任後、孫運璿が就任するまでの13日間、行政院副院長として院長代理を務めた。1981年、総統府顧問に招聘された。1996年病没、享年九十。

黃春木黃春木/1907~1976

本籍地は台湾嘉義水上郷呉竹村。一歳の時、両親を亡くし、祖父母に養育された。四歳で学問を開始した。小学校卒業後、広島の中学校に入学し、1925年に台北高等学校高等科に合格した。

台北高等学校卒業後、日本の九州帝国大学採鉱・冶金学科で学んだ。1932年、東京中野無線電信学校で教鞭を執った。1940年、台湾に戻り、九份金鉱鉱業で技師を務めた。その後、満州国で工鉱技術院(国立新京工業大学)教授に就任した。1945年、日本敗戦後、一家で台湾に移った。

当初は、台中師範学院で数学を教え、その後国立台湾大学機械系教授を務めた。中央警官学校、台北医学院、国立政治大学、中正理工学院、輔仁大学、国立中興大学、大同工学院、実践家政専科学校、明志工業専科学校、延平中学、淡江文理学院など、多数の学校の教職を兼任した。1976年、肺癌により台大医院で死去、享年六十九。

蔡雨沢蔡雨沢/1906-1962

高雄旗山出身。1925年に台中州立台中第一中学を卒業して、台北高等学校高等科理科に合格、1928年に台北帝国大学理農学部に入学し、1931年に卒業した。大学卒業後、大学に残って一年間職務に就いた。1932年、華南に赴き、広西省政府技正に就任し、農業試験研究に従事した。1936年、福州電力公司の招聘に応じて、農村電気化学技師に就任し、約十年間、中心となって農場計画を進め、戦後、帰台した。台湾省農業試験所簡任技正、同庁農業加工実験廠廠長等を歴任した。1962年、疲労が重なって病に倒れ、脳血管閉塞により逝去、享年五十六。

劉興文劉興文/(?-?)

新竹出身。1925年に台北高等学校高等科理科に合格した。1931年、台北帝国大学理農学部農学科を卒業した。1940年、入鹿山成樹と共に「台湾比較農業の研究」を発表し、台北帝国大学の奥田彧教授が著した『台湾の農業』および『農業地帯の研究』について、台湾と日本国内、台湾各地の比較において、その統計資料が非常に詳細であると指摘した。
1932年、台湾総督府殖産局米穀検査所に勤務した。
1948年、台湾省政府養蚕業改良場所長に就任し、その後農林処技正代理として派遣された。
1949年、台北糧食事務所所長に就任した。

徐慶鐘
徐慶鐘
黃春木
黃春木
蔡雨沢
劉興文
劉興文
左より黄春木、蔡雨沢、劉興文、徐慶鐘。木の上にいるのが川島悌三郎
左より黄春木、蔡雨沢、劉興文、徐慶鐘。木の上にいるのが川島悌三郎
左より黄春木、徐慶鐘、蔡雨沢、劉興文
左より黄春木、徐慶鐘、蔡雨沢、劉興文
左より徐慶鐘、黄春木、蔡雨沢、川島悌三郎、劉興文。
左より徐慶鐘、黄春木、蔡雨沢、川島悌三郎、劉興文。
左から三人目より劉興文、黄春木、蔡雨沢、徐慶鐘。後方、帽子をかぶっていない人が陳錫卿
左から三人目より劉興文、黄春木、蔡雨沢、徐慶鐘。後方、帽子をかぶっていない人が陳錫卿