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「エリートの入隊」─
台北高等学校の軍事徴集

1943年から1945年8月の終戦まで、台北高等学校の学生も植民地帝国の徴集対象となり、エリートである高校生であっても、筆を捨てて剣を執り、戦場に身を投じることになった。在校生の徴集の形態は3段階に分けられる。最初は文科学生の出征で、時期は1943年12月-1945年3月、次に全校軍隊化で、時期は1945年3月-1945年8月、最後は徴兵年齢未満の者を第二国民兵として動員した段階である。

元々、兵役法第101条の規定によると高校高等科生は、22または23歳以下であれば徴集延期が可能であったが、1943 年10 月に「教育関連の戦時非常措置案」(敕令755 号)が発布され、大学の理・農・工・医学部、高校の理科以外は徴集延期が中止されたため、徴兵年齢を満たす20歳以上の高校の文科学生は、徴兵検査を経て入営することとなった。エリートはこのようにして入隊し、しかも全員最下級兵士の身分で軍隊に入り、直に戦争の洗礼を受けた。また1944 年9 月、台湾総督府が台湾人の徴兵を開始、文科第19期の台湾人学生が先陣を切ることとなり、最初に動員されたのが葉英堃であった。葉英堃は最初の台湾人徴兵者の中で学歴が最も高く、そのため台北公会堂で全台湾青年を代表して、台湾総督の安藤利吉に対し、「感謝」と「忠心」を宣誓する大役に抜擢された。彼は1945 年3 月に入隊し、暫く荒波に揉まれた後、台湾に移動した関東軍の命軍団に編入されて、その傘下の小隊配属となり、敵軍の情報収集や撹乱作戦、民衆の安撫等を担当した。

文科学生が動員されていた期間中、台北高校の理科学生は徴集延期により学業を続けていたが、1945 年3 月に第二段階-全校軍隊化へと突入し、台北高校の学生は台湾人・日本人または文科・理科を問わず、徴兵検査を受けることなく、全員大日本帝国陸軍一三八六二部隊へと配属された。学生から、そのまま一兵卒となり、筆を捨てて従軍したのである。

3月20日、台北高校入学日で、入学即ち入営となり、全員が正式に大日本帝国二等兵となった。兵役期間の初期はまだ台北高校にいた。入営初日、全学生が草山(現在の陽明山)へと派遣され、縄で大木を引っ張り、草山街道、宮前町を通って、学校まで運び、防空壕の建材とした。これは台北高等学校の学生が正式に学徒兵となったことを意味していた。校内付設の臨時教員養成所の学生も含む台北高校の学生は、台湾独立混成旅団「敢一三八六二部隊」に属した。この部隊は台北高校、台北高商、台北一中、台北二中の学生によって構成されており、その下に第1~第5中隊が設けられていた。これとは別に各校から強壮者を選出して重機関銃中隊(重機中隊)に入隊させ、台北高校の学生は当部隊の第1、第5、および重機中隊に配属された。台北高校を主とする部隊の分隊編成状況は以下の通り:

分隊リストは、学生たちの回顧録や出征文集に基づき編集したものだが、分隊研究の根拠となる政府機関の資料は今なお不足している。【敢一三八六二部隊 重機中隊(MG)名簿】内の第1小隊第2分隊隊員・洪祖培を例とするならば、彼が提供した体力手帳に基づけば、洪祖培の身長は165㎝、体重48㎏で、決して身長は高くなく、屈強でもなかった。100m走は約14.1秒、2㎞長距離走は7分20秒で、体力判定は中級、一学生としてみれば一般人のレベルである。突出した身体条件があるわけでも、驚異的な身体能力や速度があるわけでも無かったが、重機関銃中隊へと配属されたことは、洪祖培自身にも理解が出来なかった。

3 月20 日の学生入隊後、第1中隊は普通教室を「兵営」とし、第5中隊は七星寮を兵営とした。重機中隊のみが編成後すぐに台北を離れ、その他多数は学校に留まって日夜訓練に励み、防空壕を掘った。一つ星が縫い付けられた陸軍襦袢(上着)を着、長ズボン(ゆったりとして作業ズボンに近い)、ラバーソールの靴を履いた高校生が、速成の陸軍二等兵となった。

1945 年8 月15 日の終戦後、8 月29 日に全校の徴集が解除された。学生の出征期間中(1943年から1945年)に4名の高校生が死亡し、全員文科学生であった。1937年から1945年までの台北高校在学生および卒業生の直接戦死者(例:神風特攻隊の堀之内久俊)および戦事の影響による間接死亡者(例:鹿野忠雄)は計121人、内訳は文科学生72名、理科学生49名で、台湾人はおらず、全日本人卒業生数の6%を占めており、その死亡率は低いものではない。