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碩学の教師陣

台北高等学校の教師陣は、決して中学校または今日の高校教師だけではなく、各地から招いた学識豊かな教授が講師を担当した。優秀な人材が揃い、校長と教授の三分の二が東京帝国大学卒、なかでも校長は5名全員が東大出身であった。

三沢糾三沢糾/1878-1942

1925 年、台北高校高等科が設立され、「東の伊藤、西の三沢」と呼ばれ、当時日本でも名声が高かった新鋭の教育家、三沢糾が校長に就任した。三沢糾は創業型校長であり、在任中、ソフト・ハードの設備を順次整え、制度の基礎を固め、生徒の自主的な追求を認める自由な気風の守り手であった。

また、部活動、校内刊行物、高校対抗試合、学園祭などの活動を次々と開始し、三沢自らの作である「第一校歌」が校歌となった。卒業生が最も懐かしむのは、台北高校生の自由と自治の気風の保護である。

三沢糾がアメリカの農場から買い取って本館の上に設置した「自由の鐘」と、三沢が去った後に全校生徒の寄付により制作された銅像「三沢糾先生の像」は、その後台北高校の自由の精神の象徴となった。

塩月桃甫塩月桃甫/1886-1954

本名は塩月善吉、日本統治時代に台湾画壇の要人となった著名な洋画家で、長期にわたり台北高校、台北一中で図画科の教師を務めた。1927年、石川欽一郎らと共に「台湾美術展覧会」(台展)を創設し、1943年の終了まで、長期にわたり審査委員を務め、台湾の美術発展に大きく貢献した。台湾の高山に住む原住民の素朴な美と原始的な芸術をこよなく愛し、自由な創作を主張するとともに模倣を諫め、軍国主義に反対した。図画教育は、学童の審美観念を養うことを目的とすること、またいかなる技法も先に提示せずに、学童の心性を尊重して、自主的に創作させるべきであり、教師自身も審美の経験と能力を高めなければならないことを強調した。塩月桃甫は尋常科の生徒を画家の路へ導いただけでなく、美術教育をとおして、芸術を愛で、深めることができる人間を育てようとしたといえる。

ジョージ・ヘンリー・カージョージ・ヘンリー・カーGeorge Henry Kerr/1911-1992

ジョージ・ヘンリー・カーは1937年から1940 年までの間、台北高校で英会話の講師を務めた。台湾人生徒との往来をとおして、台湾の情勢について認識を深め、アメリカに戻った後、コロンビア大学、米国国防部軍事情報総局に勤務し、かつて米軍の台湾占領計画を練り、1946年に米国駐台副領事として着任した。二二八事件の勃発を目撃した後、1947年3月に台湾を去った。1966年、二二八事件現場についての歴史的証言である『裏切られた台湾』を出版した。

三沢糾
三沢糾
塩月桃甫
塩月桃甫
ジョージ・ヘンリー・カー
葛超智
キャンパスにかつて建てられていた三沢糾の銅像。現在残る台座には劉真の銅像が設置され、講堂外に建てられている。
キャンパスにかつて建てられていた三沢糾の銅像。現在残る台座には劉真の銅像が設置され、講堂外に建てられている。
三沢糾送別記念
三沢糾送別記念
帽子をかぶった人がジョージ・ヘンリー・カー
台北高校生徒の食事会、前列左から四人目がジョージ・ヘンリー・カー
台北高校生徒の食事会、前列左から四人目がジョージ・ヘンリー・カー
台北高校生徒と講堂前にて。前列左から六人目がジョージ・ヘンリー・カー
台北高校生徒と講堂前にて。前列左から六人目がジョージ・ヘンリー・カー