自由・自治を謳歌する時代のエリート
「風変りな服装」と「独立独歩」は、当時の台北高校の生徒の特色であり特権であった。中学校から台北高校に進学した生徒は、それまでの丸刈りをやめて髪を伸ばし、擦り切れた学生服と学生帽といった無頼な服装に高下駄を履き、腰手ぬぐいを風になびかせて歩くなど、その人目をはばからない意気軒昂とした様子は、戦国時代の浪人さながらであった。しかし学校側はすべて黙認していた。1937年の始業式で、谷本清心校長は学校代表として、全校生徒の前で、台北高校の生徒としての規則について語った。「本日より諸君は紳士です。紳士は自分の行動に責任を持つべきです。酒もよし、煙草もよし。諸君は紳士なのだから、その善悪の判断は諸君の責任なのです」。
生徒たちの不羈奔放な行動は、殖民地体制下の台湾社会と共存し、「跳舞時代(ダンス時代)」と呼ばれるこの時代独特の教育的風潮を作り出した。これがまさしく植民地における自由学園ー台北高等学校である。
自由奔放な学風のみならず、台北高校出身者は近代国家の発展において相当の影響力を持った。日本人、台湾人を問わず、卒業生は、台北高校を日本殖民地統治下の「清流」と形容する。
自由且つ自主的な学習を許された環境のもと、興味を感じた事柄を積極的に追求し、校内刊行物に、自然科学、歴史社会、伝統文化などについての研究文や発表を多数掲載して、探求と向学の精神を示した。これは生徒にとって、大学入学前のウォーミングアップだったといえる。生徒は文学活動にも参加し、この過程で知識人になるための修養を積んだ。
高校時代の自由な模索を経て得た人生の目標や人生観、世界観は、その後の長い人生に影響を与え続けた。外にある世界の模索と内にある自我の探求を含め、高校教育はエリート養成に重要な作用を果たしたと、卒業生たちはしばしば強調する。
台北高校出身、台北医学大学の葉英堃名誉教授は、台北高校について次のように解説する。「自由、開放の気風は高校独自の伝統です。青春期後期と成年期早期の境目にある高校生は、伝統文化に守られながら、『思うままに人生の様々な可能性を探り、背負うべき責任はない』という特権を有していました」。
バンカラ
高校生の精神が表れた言動や身なりを指し、西洋紳士のハイカラ(おしゃれhighcollar)の対語である。青春真っ只中の高校生達は、粗野なふるまいを楽しんだ。典型的なファッションは「弊衣破帽」、ぼさぼさに伸びた髪、破れた古い学生服、高校の象徴である二本の白線入り帽子といったスタイルで、帽子は穴があいて髪の毛が見えている。肩に黒いマントをひっかけ、足には幅広の鼻緒がついた高下駄を履き、腰には汚れた手ぬぐいをだらりと提げて、ステッキをついていた。これが高校生の流行ファッションで、このだらしない恰好は、戦国時代の浪人を思わせ、また第二次世界大戦後のヒッピーのようでもある。
ス卜一厶(Storm)
周囲を騒がせ、驚かせるため、あるいは感情が激昂するままに行った団体行動は、青少年のあり余る精力の発散でもあった。施純仁の話によると、皆で肩を組んで大騒ぎし、宿舎に集まって銅鑼を敲いて歌い踊ったり、突如夜間に大声で他人を驚かせ、舎監が止めても聞き入れなかったりしたという。ス卜一厶は、場所と目的に応じて、歓迎ス卜一厶、送別ス卜一厶、祝勝ス卜一厶などの形式があった。ほとんどは宿舎や学校内で行われ、街頭ス卜一厶は学園祭や対抗試合の後に行われた。学園祭の時の街頭ス卜一厶は、ほぼ全員が参加し、大鼓と応援団が先頭に立って台北の賑やかな街を練り歩いた。傍らで警察が見守り、道沿いには見物人の山ができた。また所かまわず起こるス卜一厶もあり、山中、浜辺、道ばた、旅館など場所を問わず、気分が高揚すると自然に踊りだした。
学生寮
1925 年、高等科の設置と同時に、高等科の学生寮「七星寮」(台北近郊の七星山にちなんで名付けられた)が、高校尋常科が使用していた台北第一中学校内の第三寮廊下部分を拡張して建てられた。当時は木造2階建てで、収容人数はわずか35 人だった。1926 年 4 月、古亭町(現・台湾師範大学本部)にできた新校舎に移転した時、七星寮も新校舎所在地に建てられ、百人ほどの入寮が可能になった。百人とは、高等科の全生徒の三分の一または四分の一ほどに相当し、全寮制ではなかった。入寮した台湾人と日本人の生徒は、仲間として、共同生活を送った。
1929 年、近代建築の新七星寮が落成した際に、第一回「寮祭」が行われた。この後、毎年のように寮祭で新しい「寮祭歌」が発表され、しかもほとんど生徒が自ら創作した。このほか、学内で毎年のように行われた「記念祭」*(学園祭に相当)でも、生徒の作である「記念祭歌」が発表された。「第十三回記念祭歌」は第十四期理乙科の蘇銀河が作った曲である。
この寮祭歌、記念祭歌の創作から、自由、自治の教育ムードのもと、才気煥発な生徒たちの様子が見て取れる。二十一世紀になった今日も、日本国内に住む旧制高校の「もと生徒」は、毎年全国で「寮歌祭」を開催して、皆で高らかに各高校の尞歌を歌い、青春時代をしのぶ。「寮歌」は旧制高校の生活の中で誕生した歌であり、旧制高校の文化を構成する重要な一部である。
自由の鐘
二代目校長三沢糾が、アメリカの農場から買い入れて本館屋上に、自由・自治の精神のシンボルとして設置した。
校章
有名画家塩月桃甫がデザインしたもので、端正で大きなバショウの葉が、熱帯の青空の下、まっすぐに伸びている。これはバショウの葉を土台とした正三角形に、とがったヤシの葉を組み合わせた図案で、「ヤシの葉は勝利、正義、向上、三角形は平等、安定、進歩を象徴し、三角形の頂角は、真・善・美、科学・芸術・宗教、教育・道徳・体育の不偏という理想」を表す。
部活動
高校生の主な課外活動の一つで、教師と生徒が共に参加した。台北高校には、弁論、文芸、旅行、テニス、柔道、剣道、弓道、園芸、絵画、ホッケー、陸上、水泳、音楽、野球、相撲、卓球、俳句会、読書会、演劇研究会、航空研究会などの部活動があり、校内での活動だけでなく、台湾各地での遠征や、日本の大会にも参加した。日本の全国高等学校競技大会に出場して勝利することは、台北高校運動部にとって毎年最大の目標でもあった。
文化系の文芸部が出版した『翔風』は、台北高校の文学青年にとって重要な作品発表の場であり、かつて王育霖、王育徳、邱永漢の作品が掲載された。このほか、新聞部が発行した雑誌『台北高校』には、頼永祥、蘇瑞麟の小論文が掲載された。また、弁論部の中、南部遠征には、王育徳、邱永漢がメンバーとして加わっていた。
荒唐無稽が大流行するキャンパスにおいて、台北高校の文芸活動は天下一品だった。台北高校で毎年行われる記念祭劇は、在校生が出演し、台北市民から満場の喝采が送られた。台北市民にとっても重要なお祭りとなり、「台北名物」、「秋の名物」などと称された。
読書
台北高校は、授業で知識を吸収するだけでなく、科目以外の本を読み、課外活動に参加することを生徒に勧める気風もあった。人生、社会について学習し、体験することで、思考力と判断力を強化しなければならないということである。そのため生徒達は放課後に、運動したり、音楽を鑑賞したり、楽器を弾いたり、科目以外の文学を読んだり、哲学を討論したり、登山や天文観測をしたり、台北市街でコーヒーを飲んだりした。自主的にたくさんの本を読み、行動し、自由に幅広く知識を求めたのである。
台北高校の生徒は、新書や欧米の著作を愛読し、欧米の著作では、小説、伝記、欧米雑誌などを広く読みあさった。学校は外国語教育も重視し、英語とドイツ語の授業を週十時間以上設けて、アメリカ、ドイツ、イタリア国籍の教師を会話クラス担当教師として招き、生徒の外国語能力と国際的見識を養った。高等学校は知的エリートが急速に欧米の知識と文化を吸収した時期と言える。(ここで台北高校の蔵書を紹介できるかどうか。例えば、李登輝に影響を与えた三冊の書、ゲーテの『ファウスト』、倉田百三の『出家とその弟子』、トーマス.カーライルの『衣装哲学』など)