高校の思い出

李登輝一九四五年以後の台湾では、次第に多くの台北高校台湾人卒業生が各分野で活躍されたのであるが、影響面の大きさからいって、やはり政府の要職につき、行政にたずさわった人々の功労が大きい。その人達の職称を卒業順に記す。

徐慶鐘(3理乙)台湾省農林廳長、内政部長、行政院副院長、資政(總統府)。
戴炎輝(5文乙)司法院副院長、資政。
洪壽南(7文乙)司法院副院長、資政。
劉濶才(7文乙)立法院院長、資政。
周百錬(8理乙)監察院副院長。
黄啓瑞(8文甲)台北市長。
林金生行文甲)交通部長、内政部長、考試院副院長。
楊基銓(12文乙)台北市建設局長、経済部次長。
許子秋(15理乙)行政院衛生署長。
施純仁(18理乙)行政院衛生署長。

中央政府で最高の地位につき、台湾の政治に大きい影響を与えたのは李登輝(18文甲)で、蒋經國死去のため副總統より總統に就任。更に一九九六年には総選挙により台湾初めての民選總統となった。かくして九〇年代に入って台湾の政治は民主化‧本土化が進んだのである。 司法院の六法官には蔡章麟(4文乙)、周財源(5理甲)、洪遜欣(10文乙)、陳世榮(14文甲)らがなった。 経済界で群を抜いたのは辜振甫(12文甲)で、台湾水泥公司の会長であり、政治面でも資政として台湾・中国交流問題に活躍。

林挺生(14理甲)は大同製鋼機械公司の会長で、又大同工科大学を創設した。
許建裕(5文甲)は農復会に勤め、農貸業務を確立した。
辜寛敏(21文)は企業界に身を置き乍ら政界でも活躍・資政である。

医学界では教授として医学教育・研究、或いは医療に励んだ同窓生はかなり多く、又開業医として民衆の健康に貢献した人は更に多い。

魏火曜(4理乙)は台湾大学医学部長及び大学病院長を長年つとめ功労は大きい。
李鎭源(10理乙)は毒蛇の研究で名を揚げ、医学部長も務めた。
宋瑞樓(13理乙)は台湾に多い肝臓病の研究で有名で、陳五福(14文乙)は献身的に盲人患者の福祉に尽くした眼科医・台湾のシュヴァイツァーともよばれた。 林宗義(15理乙)は何年か世界衛生組織(WHO)で精神衛生の顧問を務めた。
台湾のマラリアを撲滅したのは梁鑛琪(17‧9理甲)、陳政徳(18理乙)、陳萬益(20理乙)、莊徴華(20理乙)らで、後に皆WHOの顧問となった。
呉建堂(19理乙)は医者をしながらの剣道範士、台北歌壇を創設し台湾萬葉集で菊池寛賞を受賞した。

著作家としては邱永漢(17‧9文甲)と王育徳(17・9文甲)がおり、後者は台湾政治問題に関する著作と台湾語研究が多い。曹欽源(4文甲)と呉守禮(5文乙)は閨南語(台湾語)の研究に、黄得時(8文甲)は台湾文学の研究にはげんだ文学部の教授である。紙面にかぎられ名をあげられないが、大学で理学部・工学部・農学部の教授として活躍された同窓生はそれぞれ六、七人ほどいる。

詳しく述べることは出来なかったが、総じて台北高校の台湾人卒業生は社会の変遷に伴い、異なった段階で、それぞれの分野で台湾の発展につくし、かなりの成果を挙げてきたのである。

李登輝

高等学校て受けた教育は、私に大きな影響を与えました。私の一生とって自分とはどんな人問で、何をすべきかを発見させてくれたのです。

張寬敏

合格発表の日、とても緊張しました。ラジオで、何番、張寛敏と流れた声がちゃんと聞き取れなくて、家庭教師の先生が私を後ろから叩くので、びっくりしました。“ほら、受かった、受かった!”まるで宝くじに当たったみたいに喜びました。

辜寬敏

高等学校で自分の人格が完成したように思えます。台高は外とは全くの別世界でてした。完全に自由、というが強い印象です。

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